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晚春--Late Spring (Banshun)

晚春/Banshun/LateSpring

8.2 / 19,752人    108分鐘

導演: 小津安二郎
編劇: 小津安二郎 野田高梧
演員: 笠智眾 原節子 月丘夢路
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2013-06-11 23:23:30

『晩春』(小津安二郎,1949)と『初秋』(原田真人,2011)

************這篇影評可能有雷************

二十七歳の紀子(原節子)小さいころ母を失い、ずっと父と一緒に暮らして、父のお世話をしていた。父が大好きで、お父さん子だった。結婚の年齢になっても、「ずっとお父さんのそばにいたい」と、お嫁になりたくなかった。結局、父に説得され、とうとう人のお嫁になった。これは小津の『晩春』のストーリーで、二十七歳の女性を切り口として進める話である。人生を四季に喩えれば、二十七歳はちょうど晩春に相當する。
 『晩春』に対し、原田の『初秋』(原作:井上靖)は五十九歳の松原辰平(役所広司)を話の軸にした。辰平は娘がお嫁になってしまって、寂しい毎日を過ごしていた。ある日、學生時代の友だちの山辺に頼まれ、山辺の娘の禮子と會いに行った。二十七歳の禮子と會ったのは十二年ぶりだった。禮子が自分のことが好きだということがわかり、辰平は長年心に潛んでいた禮子への愛情が喚起された。
 『晩春』で述べたのは、女性が「父的」「上的」な男性への感情であり、それに対し、『初秋』で述べたのは、男性が「娘的」「下的」な女性への感情である。勿論、二つの映畫とも逆の場合の気持ちを含めながら語っているものだ。単純な一方向の表現だけではなくて、実はそういう年が離れている男性と女性の間に存在する感情はそもそも相互的なものである。
 異性の親子の間には、単純の親子愛情だけなのか、もしくはインセストの感情も含まれているのか、これはよく問われていた疑問なのだ。
 小津の『晩春』ではこの疑問に対する議論は際立たないが、原田の『初秋』ではキャストに議論させた。
 「娘の亭主に、嫉妬しなかったのか?」
 「娘を、色っぽいと思うこともないかい?僕はそう思うよ」
 「君、考えたことないか?自分の娘に言い寄られたら、どんなにすばらしいだろうって。小津の映畫にもあったな。原節子は父親に言い寄るんだよ。拒むか?」
 などの台詞があった。
 辰平は否定的な回答ばっかりしていたが、心には自分を問いながら、自分を懐疑していただろう。
 しかし、最後の筋は映畫を見る人に混亂させたところもある。辰平は娘でない禮子にこう告白した。「淺子(辰平の娘)見て、君を思い出すこともあった」と。一體、辰平が戀している女性は、禮子なのか、娘の淺子なのか、分からなくなった。この物語が表現したいのは、単純な男女愛だけなのか、インセストを含めた愛情なのか、はっきりする限界がなさそうだ。
 『晩春』で父を戀する娘であっても、『初秋』で娘を思いする父であっても、最後にそういう愛を、血縁関係のある異性からほかの代わりの異性に移すしかなかった。異性の親子の間には、親子愛と男女愛とも含まれている。その中に、男女愛は禁忌とされ、徹底的に実現できないものである。『晩春』に、父は娘の紀子にこう言った。「お前がこれまでお父さんに持っててくれたような暖かい愛情(元の言葉を聞き取れなかった)を、結婚する人に移すべきだ」と。この台詞も禁忌の愛が実現できないものだということを明らかにさせた。
 異性の親子は、互いにそういうような複雑な感情を持っているからこそ、絆が深い。   舉報

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